寄で子育て

神奈川県松田町寄で1人でも多くの人が子育てを行ってほしい、そんな想いを込めてブログを記しています

【寄学中級編①】寄地区の成り立ち(前編:前近代)

【寄学中級編】では、刊行物などの記事を私なりに咀嚼し、みなさんに寄についてわかりやすく知ってもらおうという企画です。

 

第一弾は「寄地区の成り立ち」です。

 

現在寄には9つの自治会が存在しています。弥勒寺(みろくじ)、宇津茂(うづも)、大寺(おおてら)、中山(なかやま)、土佐原(どさばら)、宮地(みやぢ)、虫沢(むしざわ)・田代(たしろ)、萱沼(かやぬま)、湯の沢(ゆのさわ)です。そもそも寄地区はどのようにできたのでしょうか?

 

この寄地区に人が住んでいた痕跡が見られるのは、縄文時代からで、中山や弥勒寺の畑からは縄文土器が見つかっています。現在新東名(第二東名)の建設工事で、近隣の秦野市の蓑毛小林遺跡からは県内最大級の旧石器時代の遺跡が発見されました。中には石器製作跡もあったそうです。こうしたことも踏まえればこの地域にも旧石器時代の頃からナウマンゾウなどの大型動物を追って人々が生活してたのかもしれません。

資料集(データ) | 公益財団法人 かながわ考古学財団

 

縄文時代以降、平安時代鎌倉時代などの寄地区に関する詳しいことはわかっていません。ただ、源頼朝が妻政子の安産祈願のため、弥勒堂(現寄神社)に使者を派遣したことを考えれば、その頃も寄地区には人々が住んでいたのでしょう。

 

江戸時代に入ると寄地区には7つの村ができます。弥勒寺村、宇津茂村、大寺村、中山村、土佐原村、萱沼村、虫沢村です。ちなみに現在寄地区にある「寄七つ星ドッグラン」の「七」はここから来ているのですね🐶

寄七つ星ドッグラン | 様々なタイプのドッグラン、大きなプール、 地場の食を楽しめるカフェ

 

また村名を見ればわかるとおり、宮地、田代などは単体の村ではありませんでした。宮地は大寺の一部でしたし、田代も虫沢の一部でした。湯ノ沢は萱沼の一部です。

 

当時はこうした七ヶ村に、現在秦野市の三廻部(みくるべ)や八沢(はっさわ)なども加わり、江戸時代の後半には東山家(ひがしやまが)組合という行政単位で区分されていました。

 

東山家(ひがしやまが)という呼称は江戸時代の初期には諸文献にはすでに見られるのですが、行政単位になったのは江戸時代の後半です。ちなみにどこからみた「東」なのかというと現在の山北町には河村氏が支配していた「河村城(かわむらじょう)」という山城🏯があったのですが、そこからみて「東」という意味だそうです。ちなみに山北町の玄倉(くろくら)や中川(なかがわ)、皆瀬川(みなせがわ)などは河村城からみて西にあるので「西山家(にしやまが)」と呼ばれていました。

 

こうして、寄の基礎ができあがった江戸時代が終わりを迎えると、明治時代の初めには東山家組合を母体とする七ヶ村が一つにまとまっていくのでした。

 

明治時代に入ってからの詳しい成り立ちは後編で見ていきたいと思います。